…もう、30年以上も昔のこと、私は4歳と5歳の女の子二人を奥さんに渡して
離婚しました。
子どものことを考え何度も話し合ったのですが、…ダメでした。
そのあと、すぐ私のおかあさん、続いておとうさんが亡くなりました。
私は絵を描いてはお酒を飲み、お酒を飲んでは絵を描き、独りで暮らしました。
それまで経営っていたデザインの事務所も止めてしまいました。
何もかも無くなって自由になったのですが、何か体を支えていたもの、
ツッパリ棒が外れてしまったようなフラフラな気持になりました。
一年ぐらいそんな気持ちで絵を描いて、その溜まった絵で個展を開きました。
100号ぐらいの大きな絵を並べた個展はテレビや新聞にも取り上げられ大成功でしたが、個展が終わって、しばらくすると、私は気が抜けてお酒を飲むだけになってしまいました。
ある日、私はナーンにも持たず、遠くの、遠くの、知らない街へ行きました…。
遠くの遠くの街の海辺や、広い野原の中で私はお酒を飲んで眠りました…。
私はメソメソしていたんじゃないんです。
なーんにもする気が無くなって、ただ、お酒だけが飲みたかったんです。
でもそんな知らない街でお金が続く訳がありません。
私は商店街の片隅や小さな公園で似顔絵を描いたり、色紙を売ったり、看板屋さん、ペンキやさんなんかで働いて、お金が入るとお酒を飲んで、次の街へ…。
そんな暮らしを続けました。
お金が無くなってくると、お酒だけ買って、橋の下や、廃寺や放置されてる車の中で飲んで眠りました。
お酒が体中にふわ~と回って、頭の中が霧に包まれたようになって、
トロトロと眠りかけの時、幻想が広がり、それが、現実なのか、夢なのか、
モヤーっと混ぜこぜになる時を求めました。
…その時だけ嫌なこと、悲しい事、寂しい事を忘れることができました。
大きな、大きな街のストリップ劇場で舞台の背景に裸の女の人の絵を描いたり、
踊り子さんに照明をあてたり、呼び込みをしたり、いろんな仕事をしました…。
そんな生活を二年も続けていた夏のある日、街を歩いているといきなり雨が降ってきました。
すごい雨です。土砂降りです。ゴロゴロと雷も鳴っています。
私はあわてて近くの電話ボックスに飛び込みました。
電話ボックスの中で体を拭きながら私は『はっ』と気が付きました。
「…あぁ…、オレは、電話ボックスを、雨宿りにしか、使えないんだ…。」
私は泣きました。
滝のような雨で電話ボックスの中が見えないのをいいことに、泣きました。
「う、う…。」と声を上げて泣きました。
初めて泣きました。いっぱいいっぱい泣きました。
放浪…なんです…。行動も、心も…。
誰とも『はなし』をすることも無いのです。
モノを買ったり、注文したり、用件だけの「会話」しかないのです。
この二年間電話を掛けたことは一度も無かったんです。
電話ボックスは電話を掛けるために在るのに、
…それなのに、雨宿りだけの電話ボックス…。
孤独、独りぼっち…。
今まで、普通に使っていたこの言葉がこれほど生で、強烈に襲ってきたことは
ありませんでした。
まるで、体中を針で刺されるような痛みを感じました。
小さな街の看板屋で三日ほど働いたので、少しお金が入りました。
安い宿屋に入り、お風呂をすませ、部屋の窓際に座って、さっそくお酒です。
窓の外を見ると、狭い路地を挟んだ隣の家に、自転車が停とまりました。
仕事の帰りなのでしょう、手拭いで鉢巻をしたおじさんが、その手拭いをとって服をパタパタと叩きながら、ガラっと引き戸を開けて中に入り、
「ただいま…。」そう言いました。
「おかえり。」
奥さんなんでしょう、中年の女の人が出てきて戸を閉めました。
「・・・・・。」私は黙ってお酒を飲み続けました。
やがて私は、再婚しました。
窓に鉄格子の入った病院に入院し、幻覚や、強い飲酒欲求と闘いながら、
お酒を断めました。
印刷会社からグラフィックデザインの仕事をもらい、時間のある時は油絵を
描きました。
…あれから、何年も過ちました。いろんなことがあったけど私はお酒を飲みませんでした。
今日は私の飼っている大きな黒いワンちゃんと、今住む大きな港のある街に
お散歩です。
お洒落なカフェ・テラスでワンちゃんとお茶を飲みました。
さっき、今はもう成人して結婚もし、子供もいるお嬢さんから電話がありました。
「パパ、今度の日曜日、遊びに行くからね…。」
携帯電話があるから便利です。孫の顔が見られるのが楽しみです。
もう、すっかり秋です。
夕方になってきたので風が冷たくなってきました。
その海からの風を背中に受けて私はおうちに帰ります。
おうちにはもう明るく電気がついています。
奥さんが夕食を作っているのでしょう…。
私はおうちのドアを開けて言いました。
「ただいま…。」
「…おかえり…。」
もう私の長い長い孤独は終わっていました。